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隅田川に架かる、言問橋を渡りました!《橋を渡ってみるシリーズ #2》

第93回 平成29年(2017年)3月23日(木)

 今回は、東京都台東区花川戸・浅草と墨田区向島の間の隅田川に架かる「言問橋(ことといばし)」を渡りました(^o^)

 

 言問橋は、関東大震災後の帝都復興計画の一環として計画された橋で、1928年(昭和3年)に完成した橋なんです。

 

▼台東区側から撮りました。スカイツリーが大きく見えました(^o^)

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▼反対側の歩道からも!

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▼墨田区側からも撮りました。立派な橋です。

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▼ゲルバートラス構造と呼ばれる橋梁です。東京の両国橋、大阪の天満橋とならんで、三大ゲルバー橋と呼ばれているそうです。

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▼「昭和2年 復興局」と書かれたプレートもありました。

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 言問橋とは、少しユニークな名前です。これは、平安時代の貴族、在原業平が詠んだ短歌「名にし負はば いざこと(言)問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」に由来しているんです。

 

 この歌は、業平が今の言問橋付近の隅田川で渡し舟に乗るときに、船頭さんに「これはなんて鳥?」と聞いたら「都鳥だよ」という答えがあったので詠んだものなんです。

 

 ところで、今から72年前の第2次世界大戦末期、1945年(昭和20年)3月10日の真夜中に、東京大空襲というアメリカ軍による無差別爆撃がありました。

 

 これは、隅田川の両岸地域、今の墨田区、江東区、台東区、中央区あたりの一帯を焼き尽くす、大規模爆撃だったんです。

 

 当時、隅田川の両岸に住んでいて被災した人たちは、それぞれ隅田川の向こう岸に行けば戦火を逃れられる、という情報が流れたみたいで、両岸から言問橋に人が殺到しまい、身動きができなくなって、多くの人が橋の上で焼け死んだそうです。

 

 また、多くの人が熱から逃れるために隅田川に飛び込んだそうですが、それで助かった人はほとんどいなかったそうです。

 

 夜が明けると、言問橋の上には、数え切れない黒焦げの屍体が折重なり、屍体の上を歩かないと橋を渡れなかったそうです。

 

 また、隅田川には多数の屍体が浮いていて、地獄のような光景だったそうです。犠牲者があまりに多く、正確な数字はわからないそうですが、推定で5千人から1万人の人が言問橋で亡くなったと言われています。

 

 今は、穏やかに流れる隅田川に架かる、のんびりした橋ですが、たった70数年前にはそんな悲しい出来事があったのです。

 

▼戦後、道路は舗装され、欄干の改修も実施されましたが、親柱は当時のままです。黒ずんでいるのは、当時の犠牲者の血や脂が変色したものと言われています。

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▼橋のたもとには、1992年の改修工事のときに切り取られた当時の縁石が保存されていました。

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▼慰霊碑もありました。今の平和は、多くの人の犠牲の上に成り立っているのだな〜、という思いを改めて抱き、手を合わせました。

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